自分の悩みにマジメに答えてみることにした

東京でサラリーマンをしながら、エッセイを書いています。たまに書評ブログも。「3分間であなたに新しい視点をひとつだけ増やす」をコンセプトにほぼ毎日更新中。

エッセイは何を与えるか

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 本が好きだ。
 正確には、好きになった。小さい頃は親に「ゲームばっかりしてないで本を読みなさい」とよく怒られていたから、読みたくなかった。高校の頃、テレビのCMで流れていた小説を初めて自分から「読みたい」と思った。

  思い立ったが吉日というか、鉄は熱いうちに打てというか。その日の夕方、高校から一番近かった未来屋書店でぼくは「世界の中心で愛を叫ぶ」を買った。もともと本を読まなかったせいでページは遅々として進まなかったが、やっとの思いで読み切ってほんのり切なさが込み上げてきた時、本の魅力を知った。いわゆる「人生の一冊」ってやつに出会ったわけだ。

 「活字離れ」なんて言われて久しいが、社会人になってみて、それも頷ける思いだ。会社の後輩の女の子に本を読むか尋ねてみたら、当然のように「読みませんね」と返された。その言葉だけを返されてしまった上に、多少なりとも本へ興味があることに期待していたため、こちらからは返せず、リターンエースで0-15だ。せめて何か付け加えて返してくれよ、と心の中で不満を垂れたが、今思うと嫌われてたんじゃないかと変な恐怖心を感じてしまった。
 そもそも、本を読むにはアクションが多すぎる。
 文字を追う。内容を理解する。ページをめくる。文字を追う。分からなくなる。戻って読み直す。文字を追う。家の鍵閉めたかな。分からなくなる。戻って読み直す。以降、繰り返し…。
 時間のない現代人にとって、活字はあまりに無駄が多い。その点、動画や音楽は自動的に先へ進むから情報入手の時間効率がいい。海外ではオーディオブックが普及しているのも納得できる。日本でもAmazonから「Audible」というボイス・ブックサービスが出始めている。これからは活字を"聞く"時代だ。
 
 そんな時代だと知りながら、ぼくがネットの海の底でこそこそエッセイを書いているのにはワケがある。
 
 ぼくは書きながら頭の中の自分と対話している。
 
 頭の中で考えたことを文字にする。読む。なんでそう思ったのか、頭の中の自分に聞いてみる。この繰り返しでできたのがぼくのエッセイだ。こう書くと最初からそんな大層な目的で始めているように聞こえてしまうが、気づいたのはここ最近だ。映像や音声でこれはできない。同時性がない。双方向性がない。
 活字の不便さは自由を生む。映像や音声が川のようであるのに対して、活字は空間に近い。要素が自身の四方に存在していて、ぼくらはそれらをつなぎ合わせる。自分が持っているものをその空間に放ち、新たなつながりを生み出す。活字に触れれば触れるほど、空間はさらに広がっていく。
 活字の魅力はそんなところにあると、ぼくは思っている。
 
 そんなわけでこのご時世に、ぼくはエッセイを書いている。
 ぼくは便利な世の中が好きだ。便利さに甘えるな、なんてことを伝えたいわけでは一切ない。物事を合理的に変えていくことは至極当然の流れだし、人はそれを受け入れるべきだ。「活字離れ」と言いながら、100%活字がなくなることはあり得ないから、まったく心配していない。本を読むこと、文章を書くことの楽しさを伝えたい一心で、ぼくはひたすらキーボードをたたき、頭の中のぼくと対話している次第だ。