なぜ、ぼくは六本木に住めなかったのか
大学生の頃、六本木に行った時の話。
六本木ヒルズの周りにあるキラキラしたマンション群を見て、「自分はここに住めない人生だったなぁ」と、憧れという名の諦めを抱いたのを良く覚えている。
今から10年くらい前か。
30歳を目前にして、自分が何も得られていないという焦燥感から、後ろ向きなことばかり頭に浮かんでは消え、消えては浮かぶ。
なぜ、あの時六本木でぼくは諦めてしまったんだろう。
今考えると、こんなところに住める人間は、
いい大学を出て、誰もが知るような有名企業に勤めているか、
カリスマ性のある新進気鋭のベンチャー企業の社長くらいだ、
と、その枠に入れなかった自分を理想から遠ざけたからだ。
別に、当時の自分の分析は外れていないと思う。
だが、六本木に住める人間にあって、ぼくになかったのは、学歴やカリスマ性じゃない。
何かを生み出そうとする意欲だ。
与えられたものを「そうゆうものだ」と受け入れ、「もっとこうなれば」「ここが変えられる」という発想が湧かない。
全てを受け入れることは、利口じゃない。思考停止だ。
何かを変えるには、モノの見方が必要だ。
ぼくには知識と教養があまりにも足りなかった。
当然、ぼくは六本木に住むに値しない人間だったわけだ。
ぼくの10年間は目に見えない水蒸気のようだ。
核がなければ雲となって可視化されないように、ぼくのしてきたことには核がないから、ひとつひとつは確かにそこにあっても、目に見えることはない。
とはいえ、過ぎた過去は変えられない。
そして、10年後にまた後悔しないためには、今から行動するしかない。
ポジティブに考えれば、これから核を放てば、たちまち雲になるかもしれない。
無駄じゃなかったと言えるかもしれない。
このエッセイを書くようになってから、昔のことを思い返すことが増えた。
水蒸気は今、満たされている。