「人と話す」ってどうして大事なの?
このエッセイを書き始める少し前から、エッセイを読み始めた。それまでは「生き方なんて人それぞれだし、変に影響されたくない」と意固地になっていたが、オードリーの若林さんのエッセイ集「社会人大学人見知り学部 卒業見込」を読んで、痛く感銘を受けた。自分が悩んでいたことに輪郭をつけてくれた、と感じている。それからいろんな人の考え方、生活、人生に触れてみたいと思うようになった。
昼休みに会社の近くの本屋にたまに出かける。文庫本のコーナーを練り歩き、ふと目に留まったのが、リリー・フランキーさんのエッセイ集「美女と野球」だった。
リリーさんは「ココリコミラクルタイプ」の頃から好きだ。醸すダンディズム。放つエロティシズム。繰り返すこのポリリズム。いつかはこんなおじさんになりたいと、当時から思っている。
余談だが、ココリコミラクルタイプの出演者はみんな好きだった。特に、コニタン(小西真奈美)はぼくの永遠の憧れだ。
この「美女と野球」、リリーさんらしくそこらかしこにエログロが溢れていた。こんな世界本当にあるんですか…と震えた。
でも、そんな中にも心を打つ言葉に出会う。
自分の知らないことや理解できないことはないものと決め込んで、そんな奴呼ばわりする。
ボクは出不精で面倒くさがりだけど、なるべく色んな人に会って自分が当たり前に思っていることを修正したいと思っている。自分の考えていることが正しい、と思うことが怖いからだ。
この本の元になっているエッセイが書かれたのは、今からおよそ20年前だ。リリーさんの年齢は作中で「33歳」と記載がある。
人生経験がまるで違う。
これが何に由来するかと言えば、上述の一説に違いない。
なるべく色んな人に会って自分が当たり前に思っていることを修正したいと思っている。
これがすべてを物語っている。割とぼくは、自分は正しいと思い込む節があると気づいた。プライドなのか、頑固なのか。しかもそれを当たり前だと思ってしまう。
自分の世界を完璧に押し付けることはできない。だったら、自分の世界と相手の世界を共有するしかない。
「なるべく色んな人と会う」
5年後までに、あたり前に思っていることをぼくはどれだけ修正できるだろうか。